発達障害の配慮申請 [育児あれこれ]
まだついこの間受験したような感覚もありますが、お化粧をしたりパーマをかけたりして見た目も大人っぽくなり成長著しい時期。来年初めには二十歳の集い(旧成人式)も控えており、早いものです。
現在は一人暮らしにも慣れ、大学で話をする友人も少しずつ増えてきているようですが、1年生の時は話をするのは食堂のオバチャンのみと言っていました。
その他にもうひとり長女の話し相手になってくださっている方がいます。発達障害のADHD(注意欠陥多動障害)ゆえに、スケジュール管理などの情報整理が苦手なので授業の受講登録の方法などもよく分からない状態でしたが、入学前から連絡を取って娘のことをお願いしていた健康センターのメンタルヘルス担当の先生には多方面に渡って大変力になっていただき、入学後から週に1回面談を実施していただきご指導いただいています。
しかし、思いもよらぬことが発覚したのは1年生の前期の終わりに近い頃でした。
大学では発達障害などについて配慮申請をすることができるのですが、その申請がされていなかったのです。本当に驚き、そして憤りを感じてはらわたが煮え繰り返る思いでした。
個人情報などを記す書類にはその旨書いて提出したので、てっきり授業などの際に配慮がなされているのかと思っていましたが違っていたのです。
それが発覚したのは、娘が授業に遅刻して担当の教授から叱られたという出来事があったと聞いたのがきっかけでした。遅刻した理由を聞かれた娘はとっさに答えられず、教授から「もう来なくていいから出ていきなさい」と言われ退出したそうです。
しかしその教授は娘のことを気に掛けてくださり保健センターのメンタルヘルス担当の先生に問い合わせをしてくださったそうで、他にも何人かの教授から娘について問い合わせがあったと後で聞きました。その度にメンタルヘルスの先生が個別に事情を説明してくださっていたそうです。
先生にこの話を電話でお聞きした時に「えっ、配慮申請しましたよね?」と伺ったところ「娘さんご本人が発達障害のADHDであることを周囲に知られたくないというのでしていません」との思いもよらぬ返答があり耳を疑いました。
恥ずかしいから配慮申請していないダァ???
だったら頻繁に遅刻したりするなよっ!と心の中で娘に怒鳴りました。
ほんとにもう・・・周りの理解を得られないと大変な思いをするのは本人なのに。配慮申請についての話も入学前からよく話しておいたのに。残念ながら娘に私の気持ちが伝わっていなかったようです。
メンタルヘルスの先生から娘を説得してもらうことになり「どうしても配慮申請をしないなら大学を辞めさせる、と母が言っていたと伝えてください」と爆弾を落としておきました。
娘は高校生の時だって遅刻、忘れ物、提出物や集金の未提出、期限が決まっている課題の放棄などなど色々やらかしてくれて、ADHDの弊害を強く感じていたので配慮申請は絶対不可欠と感じていたのです。
ようやく娘が承諾してくれたので正式に申請の書類を提出することに。書類には「発達障害のために人一倍学習意欲のある娘がただの不真面目な学生だと誤解されるのは親として口惜しい」など正直な気持ちを記しました。それから娘のトリセツであるかのような生態も事細かに記しました。
会議に掛けて頂いて承認を得て、やっと効力が出ることになったのは大学1年生後期からでした。
それからは配慮していただくよりもむしろ、娘本人が色々なことに気をつけるようになって遅刻も減り、忘れ物も減り、教授とお話しもできるようにもなり、良い方向に行ったような気がします。私も娘の苦手なことをどうしたらやりやすくなるのかを一緒に考えて工夫する方法をあれこれ考えて伝えました。
例えば、本棚を5つに仕切って授業の教科書をそれぞれの曜日ごとにまとめて入れておくようにしたら忘れ物が格段に減りました。朝カバンに入れる物を選ぶだけでも手間取って遅刻につながっていたので遅刻もなくなりました。
あれから1年。1年生の成績はひどいものでしたが、2年生の成績は「S」が幾つもありました。言語能力が高い娘の才能を発揮できる環境がやっと整ったのだと思います。しかし今のところ総合すると成績は平均以下の評価です。今後がんばって巻き返して欲しいです。
継続して通院している精神科の病院でお薬を処方してもらって服用しているので、そちらの効果も出ているのかも。
発達障害が自分の特性だときちんと受け入れて、苦手なことは工夫して生活する。これは大事なことだと思います。発達障害は極端ですけど、そうでなくても誰にでも当てはまることではないでしょうか。
私も物忘れがひどいので、些細なことでもやることをメモ帳に鬼のように書き込んでいます。それからスマホのカレンダーに忘れないうちに予定を書き込んでアラーム設定しています。
幾つになっても勉強したいことは出てくるし、年齢とともに思考力や体力が衰えていくのを感じるので生活に支障がないように工夫も必要。日々精進ですねぇ。
動き出した時間 [トホホ療養日記]
1月。義父が亡くなった日の夜に倒れて大怪我をして入院していた義母は、悲しみよりも体の痛みが相当辛かったようでした。しかし毎晩スマホに電話して話をしていると日に日に元気になり、驚異的なスピードで回復しリハビリを経て1ヶ月ほどで退院しました。その後もリハビリには定期的に通っています。
義母が退院する前日には兄弟とその連れ合い総出で掃除をし、私は冷蔵庫担当。物を溜め込みやすい義母のためにリセットしよう、ということになり中身を全部処分しました。1ヶ月も留守にしていたので傷んだ食品もたくさんあり壮絶な戦いでした笑。
2月。義父の四十九日法要と納骨を終えました。
3月下旬。春休みで帰省していた長女と私と主人の3人が新型コロナに感染。唯一検査結果が陰性だった次女を隔離して1週間の自宅待機期間を何とか乗り切りました。虫の知らせだったのか、なぜかその前に食料品を爆買いして冷蔵庫も冷凍庫もパンパンの上に、水やポカリなどの飲み物も箱買いしてたくさん家にありました。喉の痛みが強いのがとてもしんどかったのですが、家族の世話もしなければならないのでマメに消毒しながら家事をしていました。
あとは外にも出られなくて暇だったので録画していたドラマを一気見したり、ネットで通販サイトや生活の参考になりそうな動画をたくさん見ていました。掃除などのライフハックや庭の手入れなど様々。
新型コロナ感染後も喉の不快感はずいぶん続きました。幸い家族皆軽い症状で済んだとは思いますが内科の主治医に聞きましたところ、後遺症とまではいかずとも不調が長引く方が多いそうで厄介でねちっこい感染症ではあるようです。皆さま引き続きご注意を。
そして、突然時間が動き出したのは4月に入ってからでした。
長い間うつ症状に悩まされて思うように動けない日々を過ごしてきましたが、ある朝目が覚めたら「ん?」と半信半疑ながらいつもと違う感覚が。あれ?何だか動けそう・・・と感じました。
その日から急に今までできなかった家事ができるようになり、爆速で片付けをしまくり、いつもメモしていた「やることリスト」の項目に次々とミッションクリアの消し線を引くことができました。
現在の病名は双極性障害なので、主治医や薬剤師さんからは「飛ばしすぎないように、無理しないように」と忠告されましたが、何年もどうしてもできなかった事柄がほんの数日で出来てしまう喜びで働きまくりました。それでも精神科で処方されているお薬をきちんと服用していたので、とんでもなく躁状態でハイテンションという感じではなく、単に体調が良かったので動けた、という自覚でいました。
5月。予定をたくさん入れてカレンダーが大渋滞。イベントなど家族で色んなところにお出掛けしました。この頃はさすがに寝込むのを覚悟しました。
そして6月。疲れが出たのと梅雨入りのせいもあるのか体調不良に転落。肩こりからくる頭痛や腰痛などに悩まされ、家事はそこそこに寝ている日が多いです。
今はちょっと下降気味なQOL(生活の質)ですが、また良い波が来たら乗りこなしたいと虎視淡々と狙ってじっくり身体を休ませています。
やっっっっと動き出した時間をここで止めてなるものか、絶対にここから這い上がってやる!
・・・と意気込んでいますが、目標は家事を普通にやりたい!というレベルの低〜いお話なんですけどね笑。
恩人とのお別れ [トホホ療養日記]
m(_ _)m
今年に入り世の中が通常運転で回り始めたかな〜という頃の1月上旬某日に義理の父が亡くなりましたので、今更ご挨拶もできなくなりました。
義父は数年前から重篤な病気を患っていることが判明したものの、高齢ゆえ積極的な治療はせずに義母とヘルパーさんによる自宅介護で過ごしておりました。次第に筋力が落ちてきてほぼ寝たきりの生活となり、昨年末あたりから病状が急激に悪化。夜眠ってそのまま安らかに逝ってしまったそうです。
うちの旦那様と結婚してから20年以上経ちますが、義理の父母ともとても優しくて最初から温かく迎えてくださいました。そしていつも笑顔で接してくださり私のことも大切にしてくださいました。義理の両親とはいえ恩人のように感じています。
結婚する前はドラマ渡鬼とかよく観ていたので、もっと大変なのかな〜と思っていたのですが笑。
生前、義父はよく私たち家族を外食に誘ってくださって、全部義父の奢りだったのですけど遠慮すると返って悲しむので、喜んでゴチになりま〜す!という感じで伺っていました。寝たきりになってからも介助で車椅子に乗って外に食事に出掛けるのを楽しみにされていて、それが一番嬉しかった親孝行と言ってくださいました。
いつかは今生の別れの時が来ると分かってはいましたが、本当に寂しいです。
そして義父が亡くなった日の深夜、今度は義母が倒れました。
深夜トイレに起きた時に血圧が急降下したのが原因のようで、脳は何ともなかったのが幸いでしたが、尻もちをついたのか腰椎を圧迫骨折の重傷を負い即入院となりました。そのため義父の葬儀は全て欠席して病院で安静にしていました。現在はリハビリを始めているようです。コロナ禍のため面会もできませんのでしばしば電話して様子を聞いています。
義父の葬儀や義母の入院の手続きなど諸々の事は、長男夫婦が取り仕切ってくれているので私たち夫婦はそれほど大変ではないのですが、葬儀では黒い着物を着たのでその準備が大変でした。
うちの実家は裕福でもないのに亡くなった実母がわざわざ仕立てて持たせてくれた紋付なのですが、結婚から20数年の時を経て体型が変わっちゃってこりゃヤバいぞ!となり、近所の呉服屋さんに相談に伺いました。今回の葬儀ではひとまず帯だけ生地を継ぎ足して直して着て、その後で喪服自体の直しなどをお願いする事になりました。
慣れない事が多くて緊張気味なのか、肩が凝って頭痛がします。
このところは疲れて休んでいる事が多いです。
昨年の10月頃から軽い躁状態が続いていたので、そちらも悪化しないように気をつけなければ。
親のありがたみ [トホホ療養日記]
ブログに載せようと思って、義理の母からいただいた果物の写真を幾つか撮っておいたものの結局旬の時期に更新できなかったので、今更ですが載せようと思います。
まず、シャインマスカットを箱でいただいた時の写真。
中に7房入っていましたがどれもホッペが落ちそうなほど美味しかったです。
それから大きな梨もジューシーで食べ応えがありました。
他にもキウイやリンゴ、柿などを美味しくいただきました。
当地では「果物は買うものではなくて貰うもの」などと申しますが、農家さんの知り合いがいるのは親の世代まで。親たちが高齢になってきて、今後はなかなか易々とは食べられなくなるかもしれません。
買うと高いんですよね〜、果物って。
私の父が膝を悪くして田んぼや畑仕事も以前よりは休むようになり、今年からお米も沢山は作らなくなりました。実家のお米の在庫が無くなったらこれからはお店で買わないと。
これまでしてもらった事の親のありがたみが身に染みますね・・・。
ついでに11月の終わり頃の富士山の写真です。
ポンコツ娘 [育児あれこれ]
長女が大学入学後の私は、疲れ果て抜け殻状態でした。また長いトンネルに入り込んでしまった気分でした。しかし、ADHD(注意欠陥多動障害)という発達障害の長女が新生活に慣れるまでは、物資を運んだり色々困っているようなので見に行ったり、毎週のように長女の元へパパとふたりで馳せ参じました。
最初の頃は「スマホの充電ができない」というので行ってみると電源タップのスイッチが入っていないだけだったり、ケーブルがちゃんと繋がっていなかったり、びっくりするほどのポンコツぶりでした。
動画での通話でも「料理作ったよ〜初めてお肉を焼いたよ〜」と言って映し出されたお皿には、コントみたいに真っ黒焦げな豚肉が・・・「苦いけど自分で作ったから美味しい」と言って食べていました。
このポンコツ娘に最も震撼させられたのは、洗濯物ビチャビチャ事件でした。
ゴールデンウィークをうちに帰省して過ごすことになり迎えに行くと、長女は洗濯物を部屋干しし終わったところでした。長期間留守にするので部屋の中を点検していて何気なく洗濯物に触ってみると・・・ん?なんだか重い。何だこれはっ?洗濯物が全部ビチャビチャ状態で吊るされている!ということに気付きました。
長女に聞きますと「面倒なので一度に大量の洗濯物を洗濯機に入れた」そうで、脱水がうまく回らなかったのにも関わらずそのまま干してしまったようです。よく見ると洗濯物から水が滴り、床もビチャビチャでした。
そればかりでなく下にあった座布団も濡れていて・・・何と床にあった電源タップやパソコンの電源ケーブルまでもが濡れていました。しかもコンセントにプラグを挿した状態で。
危なかった。気づいて良かった。火事にでもなったら大変なことになっていた・・・とパパと顔を見合わせて絶句しました。
私たちが行ったタイミングで起こった出来事だったので本当に胸を撫で下ろし、長女にはきつく注意喚起しました。家電は水濡れNGなことぐらい知っている筈なんですけどねぇ。
しかし一人暮らしを経験させて良かったかも。
新生活に慣れない内は、皆何かしらやらかすのかもしれないけれど、長女のポンコツぶりが浮き彫りになり、自分で家事をして生活をするという勉強以外の大事なことをたくさん学べそうです。
時間が経ち、今ではすっかり一人暮らしにも慣れた様子です。ただ友達ができないので寂しさは感じているみたい。
そして前期の授業が終わりに近づいた頃、思わぬことが判明して私は大変ショックを受けました。大学に長女の発達障害についての配慮申請をしたつもりだったのですが、一部の先生方にしか伝わっていなかったのです。
その原因は、私の知らないところで「発達障害を知られたくない」と長女本人が大学側に伝え情報の共有を止めていたのでした。
この続きはまた今度記します。